- 日本語のウチとソト -

 
かつて英国に語学留学していたときのこと。
ホームステイ先は50代の夫婦ふたりの家庭だった。独立した息子がいて、奥さんと娘を連れてよく遊びにきた。ホストペアレンツは、ジェーマという3歳になる孫を大変可愛がっていた。
日曜日にはよく息子一家が来て夕飯を一緒に食べていった。家族が食事をしている間、ジェーマはダイニングテーブルとは離れた場所に置かれた子供用椅子にひとりで座り、騒ぎもせずにスプンを使って食事をしていた。ときたまぐずったりしても、家族はそのまま自分たちの食事を続けた。
日本とはずいぶんちがうなあと、感心したものだ。
そこで、あるときホストマザーに言った。

「お宅のジェーマちゃんは、とてもお行儀がいいですね。その点私の甥などは、2歳だけれど食事のときは大騒ぎで大変なんですよ。親も、自分の食事をまともにできずに、子供にかかりきりだし。」
すると彼女は眉をしかめて言った。
「あらまあ、うちとちがって甘やかしてるわね!子供の教育に良くないわ。あなたからお姉さんに言ってあげたほうがいいわよ。」

(えっ)

とてもびっくりした。
それと同時に、身内をけなされた不快感が心の中にわく。
しかし、その違和感の理由をすぐに自分の中で整理できず、もやもやしたものが心の中に残った。
少し考えてみて思った。
身内を謙遜することで相手を立てる、日本独特の話法。
そして、相手がそれを否定してくれるのが当然の流れ。
これは日本人相手でないと通用しないのだと理解した。
それから私は、外国人に対して、身内の謙遜をするのをやめた。
少なくとも、「否定されることを前提に話す」ことはやめようと決めた。否定されないと気分が悪くなるからだ。

留学から帰国してほどなくして、外国人に日本語を教える「外国語としての日本語教育」の勉強を始めた。そのときに、「日本語のウチとソト」という概念を習った。
私たちが誰かと話をしているときに、その場その場で、「ウチ」と「ソト」を使い分けているということだ。
身近なところでは、会社で社長あてにかかってきた電話に対応するときに、社長と自分は同じ会社の人間だから社長はウチの人、かけてきた相手はソトの人、と区分けをしておいて、身内である社長に対し「社長はあいにく留守にしております。」という謙譲語を使うというものだ。敬語を使うときにはウチとソトを瞬時に判断し使い分けなければいけないので、外国人にとって日本語における敬語の使い方は難関である。
敬語に限らず、日本語にはウチとソトがたくさんある。
友達に対して、自分の家族について話すとき、これは明らかに、相手(友達)がソトであり、話題にあげる家族がウチである。
そして、親しい友達であろうと、ソトの人と話をしているときに、ウチの人間をほめたりすることはあまりない。しかしながら、ソトの人(この場合友達)は、それをふまえた上で、たとえ相手が自分の身内をけなそうと、決して肯定することはない。特別なケースを除いて、身内を軽くけなすなどの行為はたいてい本気でないとわかっているからだ。
外国人向けのテキストには、「日本の慣習はそうなのだ」と書いてある。
なぜか、日本人は身内をけなすのが好きで、また、話す相手が身内をけなしても、決して肯定せずに否定しなくてはいけないのだ。
日本語教育に使っていた、外国人向けテキストでは、次のようなくだりがあった。

花子さんと太郎さんの会話。

花子 これは家族の写真です。
太郎 (写真を指して)この方は、どなたですか。
花子 それは、姉です。
太郎 お姉さんは、きれいですね。
花子 いいえ。

この会話では、同じ人物を指していうときにも、ソトの人間とウチの人間に対しては言い方がちがう、(これ−この方、姉−お姉さん)ということを示すと同時に、「身内をほめられても、否定するのが自然だ。」という日本語の文化を表している。このようにして、テキストには、随所に日本の文化の特徴がちりばめられていた。

こうしたことを理論的に説明されると、確かにそうだなと思うのだけれど、先に述べた英国での体験のように、実際に異文化の中に入り込んだときに、ふいうちを食らうようにして違和感を感じる機会があると、ことさら自国の文化の特殊性というものを強く認識するものである。逆にいえば、そのような機会がない限り、あまり意識することはない。

それにしても、日本では従来から、よその人に対する身内の謙遜を通り越した、身内に対して必要以上に厳しくするケースが見られると思う。
これもやはり、身内を面と向かってけなしたり、冷たくあしらうことにより、相手に対する敬意を表すという心理表現なのだろうか。
こう書いてみると不自然に聞こえるが、実際にはそういうケースが誰でも思い当たると思う。

夫婦が二組で食事をしている。
夫A 「うちの家内は料理が全然ダメで困ったもんですよ」
夫B 「いや、そんなことないでしょう。うちの家内こそ、得意料理っていったらカレーとインスタントラーメンですよ」(一同、笑)
夫A 「いやいや、うちなんかね、こないだ笑っちゃいましたよ。夕飯の支度に3時間もかけて、出来たものって言ったら黒焦げのステーキとマッシュポテトですからね」(一同、大笑い)

そのあいだじゅう妻ふたりはどうしているか。
一緒になって笑っているのだ。
このような光景は「ひとむかし」前まではよく見られたが、最近ではさすがに少なくなった。
しかし、このとき双方の妻が不在だと考えたなら、今でもこうした会話はめずらしくないのではないだろうか。

子供の頃、父方の本家に家族で行くたびに、母親が私や姉に対して急に意地悪なおばさんに変貌するのが不思議だった。母親自身が嫁として台所に常に待機している立場だったから、娘の私たちにも手伝いをさせるのはわかるが、それにしても「必要以上に意地悪な言い方」をするのだ。今にして思えば、あれも、そうすることによって「家族以外の人たちへの敬意を表している」行為だったのだろうか。

日本以外のアジアでもそのような文化が多少あるのかもしれない、と韓国に行ったときに思った。
あるとき観光で訪れたソウルで、友達の知り合いの韓国人男性が観光地を案内してくれた。その人の後輩の女性もいたのだが、何かというと彼は後輩女性に対して「この人は貧乏人ですから」とか「田舎者ですから」などとズイブンなことを言っていた。彼女は「ひどいなあもう」と言いながら、それでも決して怒ることはなく、しじゅう笑っていた。

英国留学中に語学学校で出会った人々を通じて得た印象としては、中国、韓国、そして日本というアジア人には遠慮や謙遜という文化が共通していたように思う。ここからは私の推測であるが、それらの国に共通した概念として、儒教的な「家族のつながり」を重視する姿勢が根底にあるのだと思う。だから、家族や親族といった、切り離せない社会単位で結ばれた者たちを、その他の者たちと完全に区別する意識が根底に働いているのではないか。その結果、本当ならば一番大事な相手である身内を逆に下に置くことによって、社会との統一性をはかるのではないだろうか。

一昔前なら日本に概念すらなかった「セクシャル・ハラスメント」や「ドメスティック・バイオレンス」さらに「モラル・ハラスメント」や「パワー・ハラスメント」。
これらはすべて非難されるべき行為として取り上げられ、場合によっては犯罪行為にもなりうる。従来「身内や目下の者は何があっても我慢すべきだ。」と、不当な扱いに対してひたすら忍耐を強いられてきた封建的文化からの脱却が始まって久しい。
「身内に対する必要以上の卑下、攻撃」
これも、はたして根は同じところにあるのではないだろうか。
最近では度を超えた身内の卑下というものはあまりお目にかからなくなった。
言われた(身内である)本人にとっても、聞いている相手にとっても、あまり愉快なことではない、と誰もが気づいてきたのではないだろうか。

日本語におけるウチとソトに見られる、「相手の身内や所有物を立てて丁寧な言い方をする」ルール。これは思いやりという点ですばらしい慣習だと思うし、これからもその文化を継続していってほしい。また、身内をやたらほめたりせず、多少へりくだる程度の謙遜、これも奥ゆかしい習慣だ。しかし、必要以上の身内の謙遜については、少なくなっていくことを願いたい。


2005年8月

 
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